注:このコーナーは新規のファンやファンでは無い方向けに書いております。
ファン歴がそれなりの方なら既に御存じの内容かと思うのでヨロシク☆
音楽の世界でサクセスを掴むと決意した永ちゃんは本格的に音楽教室でギターを習い始めバイト先で発声練習したり授業をそっちのけで楽典の本を貪り読んだりと音楽優先の生活を送る様になります。
この頃から作曲も始めているのですが、永ちゃんの処女作と言える楽曲が、後にソロ・デビュー曲と成る♪アイ・ラヴ・ユー,OKです。
また、広島を離れる頃には、後にキャロルでリリースされる曲も出来ていた様で、その楽曲を引っ提げて、高校卒業後に夜行列車に乗って東京を目指します。

横浜 矢沢永吉にとってのリバプール
日付が変わり夜が明ける頃に、乗っていた電車が横浜に到着すると東京を目指してる筈の永ちゃんは無意識の内に電車から飛び降ります。

この時の事を永ちゃんは、ビートルズが生まれ育った町、リバプールも横浜と同じ港町だったからじゃないかと回想してます。


新天地、横浜でロックスターとなる道程の第一歩を踏み出した永ちゃんですが始めの頃は生活の為に住み込みのアルバイトで働き詰めの毎日を余儀なくされます。
やがて生活の基盤が整った頃に永ちゃんは♪アイ・ラヴ・ユー,OKのデモテープを持って東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)の門を叩きます。
何故、東京に数あるレコード会社の中から東芝EMIを選んだかと言えば単純に「ビートルズのレコードを出してる」からでした。
そこでディレクター2名程に実際に聴いて貰う事が出来たのですが、その反応は鈍い物でした。
「キミ、これ歌詞ないの?」
この頃、永ちゃんは、まだ、この曲に詞を付けていませんでした。
故にテープが流れると「アイ・ラヴ・ユー,OK~」の後は単に「ラララー」とメロディをなぞる声が入っているだけでした。
「ええ。無いんです。メロディーを聴いて欲しかったんです」
「これメロディーはいいね。いいけど日本じゃウケないみたいよ」
このディレクターの感想は至極御尤もで、永ちゃんのメロディーは完全に洋楽から影響を受けた物でしたから当時の大多数の日本人の耳に馴染む様な物ではありませんでした。
日本語詞の洋楽サウンドが矢沢永吉の楽曲の真骨頂なのですが、それが世に出るにはもっと時間と+αが必要でした。
「他になんかないの?」
「ア、アリマス」
「じゃちょっと弾いてみて」とギターを渡され
「い、いま弾くんですか?」
この時、披露したのが♪ひき潮でした。

ですが、この頃の永ちゃんは、まともなバンド経験がまだ無かったので、その演奏は酷い物だった様です。
「ごめんなさい。いまアガ、アガってるんです」
「こっちの方がフォークっぽくていいな」
そう言って貰えた物の
「またいい曲書いてきてよ」
体よく帰されるのでした。
それから永ちゃんはCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンターテイメント)にもデモテープを送るのですが、こちらも不採用の通知が届きます。
当たり前ですが音楽的キャリアがゼロに等しい若者が即デビュー出来る程、この世界は甘くありません。
ただ、この経験が後に花開く事に成るのは皆さん御存知の通りです。
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